2020年06月01日

目黒通り その十六 元競馬場(2)

目黒通りの「元競馬場前」バス停の並びに競馬場の記念像がある。
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2020年05月31日

目黒通り その十六 元競馬場(1)

目黒競馬場は1907年(明治40年)から1933年(昭和8年)まで、東京府の目黒村に存在した1周1マイルの競馬場(所在地は現在の東京都目黒区下目黒4-6丁目)。
現在の東京・府中の東京競馬場は目黒競馬場が移転したものである。1907年創設の日本競馬会(1936年設立の日本競馬会とは同名であるが別団体)が設立したが、1910年に東京競馬倶楽部に経営は移った。
山手線目黒駅、東急目黒線不動前駅(開業当時は目黒蒲田電鉄<現: 東京急行電鉄>)、東急東横線祐天寺駅(開業当時は東京横浜電鉄<現: 東京急行>)の3駅とほぼ等距離で、1km余り離れた場所に位置していた。
現在の目黒区下目黒4-6丁目あたりの地図である。元競馬場前バス停や元競馬南泉公園という公園がある。

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2020年05月30日

目黒通り その十五 国立科学博物館附属自然教育園(2)

現在、コロナ対策で自然教育園は閉鎖されているが、門前を通ると園内樹木の薫り高い匂いが道路まで繰り寄せている。何とも言えない樹木の薫りである。
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2020年05月29日

目黒通り その十五 国立科学博物館附属自然教育園(1)

自然教育園を含む白金台地は、洪積世(20~50万年前)海食によって作られました。
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2020年05月26日

目黒川の生き物 その一 蛇

目黒川には様々な生き物がいる。
目黒川は桜で有名だが、この川を観察していると、時に、妙な生き物に出合う。
船入場で蛇が泳いでいた。

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2020年05月25日

目黒通り その十四 ゆかしの杜 港区郷土博物館

2018年(平成30年)11月1日(木曜日)白金台のゆかしの杜に港区立郷土歴史館が開館しました。建物は、昭和13年に建築された旧公衆衛生院の歴史的に貴重な外観や内部の講堂などを保存改修して活用しています。郷土歴史館では、出土した縄文土器やクジラの骨格標本など、本物に触れたり、プロジェクションマッピングやタッチパネルを活用しながら港区の自然・歴史・文化を学ぶことができます。また、ミュージアムショップやカフェもあり、歴史を知り、交流できる施設です。
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2020年05月24日

現在、ゆかしの杜となっている場所は、目黒通りの瑞聖寺の向かい側で、東大医科学研究所の隣に位置している。
この地には旧国立公衆衛生院(The Institute of Public Health)があったが、2002年(平成14年)に改組・廃止された、日本の公衆衛生の向上を目的とした調査研究機関であった。

公衆衛生院の建物および設備は、アメリカ・ロックフェラー財団から日本政府への寄贈である。援助額は当時のお金で総額350余万ドル。世界保健機関 (WHO) は国立公衆衛生院を「School of Public Health(公衆衛生大学院)」として紹介している。

2002年(平成14年)4月1日付けで組織が改組され、国立感染症研究所の一部などと共に国立保健医療科学院となり、多極分散型国土形成促進法により現在は埼玉県和光市に移転している。

旧建物は文化財的価値から保存され、ゆかしの杜として2018年にオープンした。
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2020年05月23日

目黒通り その十二 東大医科学研究所

安政3年(1856)古地図で見ると、瑞聖寺の向かい側辺りが東大医科学研究所である。
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2020年05月22日

目黒通り その十一 瑞聖寺(3)

瑞聖寺の庫裏は隈研吾の設計です。
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2020年05月21日

目黒通り その十一 瑞聖寺(2)

瑞聖寺の大雄宝殿および通用門1棟は昭和59年(1984年)東京都指定有形文化財に指定され、平成4年(1992年)に国の重要文化財に指定された。
現在は寺の北側の目黒通り側が境内入口になっているが、本来こちらは裏門で、寺の東側が正式の入口であった。
もと目黒通り側にあった高麗門形式の旧通用門(重要文化財の附指定)は、明治時代に東側に移築されている。
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2020年05月20日

目黒通り その十一 瑞聖寺(1)

瑞聖寺は寛文10年(1670)に創建された。開山(初代住持)は日本黄檗宗2代の木庵性瑫である。木庵は日本黄檗主の祖・隠元隆琦の招きで明暦元年(1655年)に中国・明から来日し、寛文5年(1665年)に江戸入りした。開基(寺院創設の経済的基盤を提供した人物)は摂津麻田藩(大阪府豊中市)の2代藩主・青木重兼である。重兼は黄檗宗に深く帰依し、晩年には家督を譲って出家している。江戸時代には江戸の黄檗宗の中心寺院として「一山之役寺」と呼ばれていた。
江戸名所図会によると山門・天王殿・大雄宝殿・禅堂等を備えた巨刹であったが、文政年間に大規模な罹災あう。現大雄宝殿は高輪下馬将軍として名高い薩摩藩主・島津重豪により扁額を与えられる共に再建されるに至る。

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2020年05月18日

目黒通り その十 聖心女学院(3)

細い道に聖心女学院の案内ポールが立っている。

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2020年05月17日

目黒通り その十 聖心女学院(2)

聖心女学院は「すぐ先の角を左折400㍍先」と書かれている。

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2020年05月16日

目黒通り その十 聖心女学院(1)

目黒通りの日吉坂に聖心女学院への道筋が小さく表示されている。
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2020年05月15日

目黒通り その九 八芳園

八芳園は東京都港区白金台に所在する、1万2000坪の敷地内に庭園のあるレストラン・結婚式場である。明治学院大学、シェラトン都ホテル東京と近接している。庭園の名称は「四方八方どこを見ても美しい」に由来する。
江戸時代前期には譜代の江戸幕府旗本・大久保忠教(彦左衛門)の屋敷(但し、現在の園全域ではなく一部が彦左衛門の屋敷地)であったが、その後薩摩藩の抱屋敷、島津氏(松平薩摩守)の下屋敷を経て、明治時代に渋沢喜作の手に渡る。

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2020年05月14日

目黒通り その八 シェラトン都ホテル東京

シェラトン都ホテル東京は、旧藤山愛一郎(元外務大臣・国務大臣経済企画庁長官・日本商工会議所会頭・東京商工会議所会頭・日本航空初代会長等を歴任)邸跡地である。
建物は、世界貿易センタービルなどで知られるアメリカの建築家ミノル・ヤマサキの設計。内装と庭園は日生劇場などで知られる村野藤吾の設計であったが、2000年以降の改装により村野のデザインの大部分は失われ、低層階(地下2階〜1階)の内装の一部や階段等にその名残りを残すのみである。
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2020年05月13日

目黒通り その七

清正公前交差点を目黒通り入って歩くと「シェラトン・都ホテル」がある。
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2020年05月12日

目黒通り その六 大石内蔵助切腹の場所

目黒通りに面していないが、覚林寺前の桜田通りを渡って天神坂の急坂を上りきり、左に歩いていくと都営高輪アパート団地があり、その建物の間に以下の石碑が建っている。
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2020年05月11日

目黒通り その五 山手七福神巡り出発寺 覚林寺

覚林寺は「江戸山手七福神」巡りのスタート地点でもある。
「江戸山手七福神」は江戸最初といわれ江戸城の裏鬼門守護のため、将軍の鷹狩りの際に参詣した「目黒の不動堂(瀧泉寺)」の参詣道筋に設置された江戸時代から続く、江戸最初の七福神巡りである。
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2020年05月10日

目黒通り その四

下図は目黒通り出発地点の清正公前あたりの地図である。
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2020年05月09日

目黒通り その三

前回の掲載、明治4年(1871)の吉田屋文三郎「東京大絵図」、これは江戸切絵図の流れを汲む最後のもので紹介したが、別の地図、安政3年(1856)時の江戸地図『復元・江戸情報地図』(朝日新聞)で見てみたい。
まず、目黒駅あたりである。
安政3年地図1 (2).jpg
森伊豆守、播州三日月藩の辺りが目黒駅。ここから地図最後の瑞聖寺まで目黒通りが上図で描かれている。
瑞聖寺から清正公前交差点の覚林寺・清正公近辺の地図は以下である。

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2020年05月08日

目黒通り その二

目黒通りの始まり地点は港区白金台の桜田通りの清正公前交差点。終点は世田谷区玉堤の多摩堤通りに至る延長10kmの都道である。
明治4年(1871)の吉田屋文三郎「東京大絵図」、これは江戸切絵図の流れを汲む最後のもの。
維新直後の東京は諸大名が国元に去り、旗本・御家人が離散し、武家に生計を依存していた町民層も困窮、火の消えたような状況だった。
江戸時代の最盛期には130万人に達していた人口は、明治4年には58万人弱に激減した。
この当時の切絵図だが、目黒通りの位置付けは明確に描かれている。
以下の地図は前回紹介した目黒駅あたりから、清正公前交差点の覚林寺・清正公近辺のもの。
当時はすぐ傍まで海が近くに迫っていた。

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2020年05月07日

目黒通り その一

目黒駅近くの古地図を紹介する。この地図は尾張屋板江戸切絵図で嘉永7年(1854)に発行され、下の切絵図は安政4年(1857)に改版したものである。
安政4年といえば下田条約が結ばれた年で、5月26日に、アメリカ総領事ハリスが、日米修好通商条約の前段階として、下田にて締結した9か条の日米約定(日米追加条約)のことである。
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2020年05月06日

目黒火薬製造所 その三

目黒区役所ホームページに「歴史を訪ねて」として2013年10月1日に掲載されている内容を続ける。

(再び移転)
もともと目黒には産業といえるほどのものはなかったが、それでも明治初期以来、灌漑(かんがい)用の三田用水を利用して精米・製粉をする水車は少なくなかった。水車の数は明治40年には、大崎、目黒を中心に49カ所に上る。日本麦酒や火薬製造所などの大工場も、動力源として、また、生産の過程で、大量の水を必要としたため、三田用水を利用できることを前提に、ここに設立されたわけで、目黒の工業の発展の歴史は、同時にまた、三田用水が農業用水から工業用水に変わってゆく過程でもあった。

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2020年05月05日

目黒火薬製造所 その二

目黒区役所ホームページに「歴史を訪ねて」として2013年10月1日に掲載された内容を続ける。

(明治期に発展)
明治維新後、新政府は、内乱の鎮圧と対外進出に備えて兵器・火器の補強を図るため、新たに火薬製造所の建設場所を捜していた。
そして、白羽の矢が立ったのが、旧幕営砲薬製造所跡の目黒の三田村である。三田村が2度も火薬製造所に選ばれたのは、目黒川・三田用水・豊富な湧水など水利に恵まれ、茶屋坂上の高台から目黒川にかけての傾斜地が、火薬生産に必要な鉄製水車を回すのに適していたからである。

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2020年05月04日

目黒火薬製造所 その一

目黒火薬製造所については目黒区役所ホームページに「歴史を訪ねて」として2013年10月1日に掲載されている。
 「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものである。
(江戸時代)
「同時二十六日昼、四半よつはん時頃、荏原郡目黒在三田村、合薬(鉄炮に用ふる所の品なり)の製所に、過って火を発す。其響四、五里に聞えたり。即死・怪瑕の者七十余人といふ」
江戸時代末に刊行された「武江年表」の、文久3年(1863)9月26日の項の一節である。
ペリーをはじめ諸外国船の来航、尊王攘夷勢力の過激な反幕運動など、幕末の深刻な政情不安は、江戸近郊の平和な農村だった目黒にも及んできた。幕府が三田村に建設した砲薬製造所の数回にわたる爆発の記録にも、その様子がうかがわれる。

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2020年05月03日

東京都庭園美術館 その十 白金火薬庫

明治13年(1880)から昭和3年(1928)にかけて、目黒区三田には東京砲兵工廠所管の目黒火薬製造所という軍需工場があり、また、目黒火薬製造所から山手線の線路を挟んだ東側の白金台には、白金火薬庫という陸海軍の火薬倉庫があった。
東京砲兵工廠目黒火薬製造所は目黒の都市化とともに昭和3年(1928)、群馬県岩鼻村へと移転し、跡地には海軍技術研究所が入って艦の設計や技術開発などが行われるようになり、その流れで今は防衛省艦艇装備研究所となっている。
この地の主管が陸軍から海軍に変わる数年前の大正6年(1917)、火薬の運搬先であった白金火薬庫が陸軍省から宮内省へと委譲され白金御用地となり、白金火薬庫軍用線はその役目を終えたものと思われる。
火薬庫の残照が遺っていると言われている写真が以下で、茶屋坂児童公園の近くにあるという。

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2020年05月02日

東京都庭園美術館 その九 朝香宮鳩彦王(3)

『郷土随筆 目黒界隈』(富岡丘蔵著 とみおか・きゅうぞう 昭和36年 梢書房)がある。著者の富岡氏は目黒区史編集委員などを務めた方である。
ここに「白金迎賓館」について説明しているので紹介する。

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2020年05月01日

東京都庭園美術館 その八 朝香宮鳩彦王(2)

朝香宮鳩彦王は明治20年(1887)、久邇宮朝彦親王の第8王子として生まれ、明治39年(1906)に朝香宮家を創設。「朝香」の名は明治天皇より賜ったもので、父・朝彦親王が伊勢神宮祭主を務めていたことにちなみ、伊勢国朝香山から採られた宮号である。明治43年(1910)に明治天皇皇女允子内親王と結婚する。

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2020年04月30日

東京都庭園美術館 その七 朝香宮鳩彦王(1)

朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう)、明治20年(1887) -昭和56年(1981)、または朝香鳩彦(あさか やすひこ)は旧皇族で、旧陸軍軍人。久邇宮朝彦親王の第8王子で朝香宮初代当主である。
1947年(昭和22年)10月14日に皇籍離脱している。允(のぶ)子(こ)妃殿下は明治天皇の第八皇女である。
昭和天皇のお妃であった香淳皇后は、久邇宮邦彦(くにのみや くによし)王の第1女子良子(ながこ)女王である。
久邇宮邦彦王と朝香宮鳩彦王は兄弟であるから、朝香宮鳩彦王は香淳皇后の叔父に当たる。

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2020年04月29日

東京都庭園美術館 その六 ルネ・ラリックと朝香宮

池田氏まゆみ氏(美術工芸史家)の『ルネ・ラリック――情熱、野心、創造』(国立新美術館 MOA美術館 東京新聞2009年「ルネ・ラリック」図録)は、ラリックと、東京・白金台にある東京都庭園美術館についてもふれる。

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2020年04月28日

東京都庭園美術館 その五 ルネ・ラリック

前号に続き池田まゆみ氏(美術工芸史家)の『ルネ・ラリック――情熱、野心、創造』(国立新美術館 MOA美術館 東京新聞2009年「ルネ・ラリック」図録)の記述を紹介する。

≪彼についてしばしば尋ねられる質問がある。すなわち、①「ジュエリー制作から、なぜ”突然”ガラスに移行したのか」、②「これらの作品をすべて一人で制作したのか」、③「これだけの作品を生み出したラリックは、どのような人物であったのか」という問いである≫(8頁)

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2020年04月27日

東京都庭園美術館 その四 アール・デコとルネ・ラリック

エミール・ガレが亡くなった一九〇四年を境にして、アール・ヌーヴォー運動は急速に衰えていったが、その頃に台頭してきたのが、パート・ド・ヴェールの技法を使うアージー・ルソーとフランソワ・デコルシュモン、彫金作家から転向したルネ・ラリック、フォーヴィズムの画家から転向したモーリス・マリノなどであった。

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2020年04月26日

東京都庭園美術館 その三 アール・ヌーヴォーとアール・デコ

現在、東京都庭園美術館は新型コロナウイルスで休館中である。開館していれば以下のような内容が展示されている。
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上の企画「東京モダン生活」を理解するためには、前提認識としてアール・ヌーヴォーとアール・デコについて触れなければならない。

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2020年04月25日

東京都庭園美術館 その二

東京都庭園美術館のホームページでも「旧朝香宮邸内装にかかわった人々」として、アンリ・ラパン(1873–1939)、ルネ・ラリック(1860–1945)、イヴァン=レオン=アレクサンドル・ブランショ(1868–1947)、マックス・アングラン(1908–1969)、レイモン・シュブ(1891–1970)と宮内省内匠寮が紹介されている。
このように「旧朝香宮邸内装にかかわった」フランス人芸術家は文化という分野で認められた存在であった。

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2020年04月24日

東京都庭園美術館 その一

目黒駅から目黒通りを清正公前交差点、つまり、目黒通りの出発点に向かって歩き出すと、東京都庭園美術館が見えてくる。
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2020年04月23日

目黒駅 その二

目黒駅は、目黒区域でなく、品川区に立地する。
現在の目黒駅とバスターミナルである。高層ビル「目黒セントラルスクウエア」も立地する。

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2020年04月22日

目黒駅  その一

久米美術館は目黒駅前にある。では、この目黒駅はいつごろ出来たのか。
 この説明には山手線の歴史から語らねばならない。
 山手線は環状になっているので、端から端までを行ったり来たりする多くの路線とは異なり、ずっと乗ってぐるぐると回り続け、1週は34.5kmで、1週するのに約1時間。
 駅の数は令和2年(2020)開業の「高輪ゲートウェイ駅」を加え30駅。
山手線はJR東日本の路線の中で、平均駅間距離が最も短い路線で、駅間の距離が一番長いのは、品川~田町の約2.2kmだったが、高輪ゲートウェイ駅が出来たので、最長駅間は五反田~大崎の約2.0kmとなって、反対に駅間最短距離は西日暮里~日暮里の約0.5km。
山手線は、明治18年(1885)に品川~赤羽間(渋谷・新宿経由)が「品川線」として開業されたところから始まった。既に開業していた新橋・品川以南の現東海道線と、上野以北の東北本線を繋げる為の路線として。

山手線1.jpg

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2020年04月21日

「目黒の殿様」その二

何故に、久米桂一郎が金持ちなのか、また、この絵が目黒駅前の久米美術館にあるのか。
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この説明には岩倉使節団から語らねばならない。岩倉使節団とは、明治4年(1871)11月(新暦12月)から明治6年(1873)9月までアメリカとヨーロッパ諸国に、岩倉具視をリーダーとし、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された使節団である。

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2020年04月20日

「目黒の殿様」その一

コロナウイルス感染症による外出自粛以前は、よく目黒駅を利用していた。今は全く交通網とは無縁となったが、その目黒駅にはコロナウイルス対策散歩で時々行く。
 JR目黒駅西口に久米美術館がある。久米ビルの8階であり、美術館パンフレットに記載された地図は以下である。
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経営ゼミナールの例会開催はいたしておりません

現在、経営ゼミナールの例会開催はいたしておりません。

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正会員の募集はいたしておりません

現在、経営ゼミナールの正会員の募集はいたしておりません。

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2020年04月19日

「環境条件下で、できることをする」

永井荷風が日本人は理想というものを持たず「その日その日を気楽に送ることを第一となすなり」と指摘しているという。(日経新聞 春秋 2020.3.29)
そうかもしれないが、今回のコロナウイルス感染症は、国民全員を一大不安にした。そこへ政府の緊急事態宣言、対象地域を2020年4月16日から5月6日まで全国に拡大した結果、外出自粛を要請された我々は、今までの生活スタイルを一変させることになった。
行動範囲が家庭内のみになり、食べて、寝る生活となって、不健康状態に陥りやすいので、各メディアからは家庭内でできる運動方法がいくつも提案されている。
筆者は、今までジムで行っていたストレッチを毎日食後に行って、血糖値を上げないようし、あとは散歩を大体60分程度するようにしている。
皆さんも、それぞれ工夫されていると思うが、その前提としては「自分」株式会社の社長という考え方がよろしいのではないかと思っている。
カナダ・ヨーク大学のモシェ・ミレブスキー教授が「人生100年時代の資産管理術」という本で著した言葉である。(日経新聞 大機小機 2020.3.31)
一人ひとりが「自分」株式会社の最高経営責任者(CEO)兼最高財務責任者(CFO)として、その企業価値を最大化していきなさい――とミレブスキー氏は教えてくれる。
この考え方を採用すれば、毎日の散歩も重要な要素に変化する。一般的に今まで自宅付近地勢に興味が薄く、会社と自宅を往復するだけであったのだから、コロナウイルス感染症は、危機を自己啓発に結びつけるツールになるかもしれない。
つまり、散歩に工夫が必要なのである。荷風が指摘する「その日その日を気楽に送る」のではなく、家庭内の運動と散歩しかなくなった環境条件下では、気楽な散歩から、散歩の積み重ねによって、何かを見つけ、何かを引き出すようにしたいものである。
会社ではトップダウンや計画があったわけだが、今はそことの連絡網が薄れている。だから、日々の営みの中において自分で見つけていくことから、そこから新たな方向性を生み出せるのではないか。いわばちょっとした「気づき」のようなものだが、積み重なると、時に大きな方向転換をもたらし、「創発」という可能性もあるだろう。
自らの事業基盤、知識基盤がいつディスラプトされるか油断ならない時代なのだからこそ、一人ひとりが「創発」の感度を磨く必要があるのではないか。
それを散歩という定まりきった行動の中で見いだしていく。このように考えて行動するならば、コロナウイルス感染症そのものはきわめて怖い存在だが、反面、「自分」株式会社の社長という脳細胞を活性化される糧に成り得るのではないだろうか。
次回からは筆者が行っている散歩から見出した何かをお伝えしていきたい。

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2020年04月18日

シアトルのIT企業経営者からの提言

Pacific Software Publishing, Inc.(シアトル)代表取締役社長  内倉憲一氏から次のアドバイスをいただきました。

危機
つい最近まで、誰もがこの数年間の経済成長を実感し、活気に満ち溢れていたと思います(トランプ政権への賛否は別として)。しかしながら、コロナウイルスパンデミックの影響を受け、今では未曾有の株価暴落の真っ只中にいます。レストランは閉まり、飛行機はキャンセルが相次ぎ、ホテルは空です。言うまでもなく、多くの人が職を失っています。職を失っても、命を守る方が重要だということでしょう。

私は、1987年に起業して以来、インターネット・バブル、サブプライム住宅ローン危機、9.11 を経験してきました。身近なところでは、シアトルのWTO抗議活動、データセンターの洪水、フィッシャープラザの電気火災などがありました。さらに言うと、ハッキング、DoS攻撃、ウイルスアタック、サーバーの故障などは常に起こり得ることで、我々は様々な危機に直面しては、その都度乗り越えてきたのです。

これらの危機から私が学び、心に留めていることを下記のリストにまとめました。

1. 危機が訪れた時、焦って決断をするのではなく、まず準備をします。私は、コロナウイルスパンデミックは予期しておりませんでした。
2. 現金を準備します。万が一の場合に備えた資金を準備しておくことで、パニックにならずに済みます。
3. 社員と密にコミュニケーションを取ります。社員と意見が合わないこともあるかもしれませんが、みんなから良い意見を引き出せるよう、話を聞き理解するよう努めます。
4. 冷静になります。リーダーがパニックになれば会社全体がパニックになってしまいます。あなたは舵を握る船長なのです。社員に焦っている姿は見せないでください。
5. 危機には終わりがあることを思い出します。意識を高く持ち、嵐が過ぎたあとの準備を始めます。

危機的状況にいるかどうかに関わらず、これらのことを常に意識するよう心がけています。「マーフィーの法則」や「ハインリッヒの法則」もその一つです。これらの法則について知らない場合は是非調べてみてください。

コロナウイルスの危機にも必ず終わりが来ます。その時の準備はできていますか?

投稿者 Master : 11:45 | コメント (0)

シアトルのIT経営者から

Pacific Software Publishing, Inc.(シアトル)代表取締役社長  内倉憲一氏から次のアドバイスをいただきました。

危機
つい最近まで、誰もがこの数年間の経済成長を実感し、活気に満ち溢れていたと思います(トランプ政権への賛否は別として)。しかしながら、コロナウイルスパンデミックの影響を受け、今では未曾有の株価暴落の真っ只中にいます。レストランは閉まり、飛行機はキャンセルが相次ぎ、ホテルは空です。言うまでもなく、多くの人が職を失っています。職を失っても、命を守る方が重要だということでしょう。

私は、1987年に起業して以来、インターネット・バブル、サブプライム住宅ローン危機、9.11 を経験してきました。身近なところでは、シアトルのWTO抗議活動、データセンターの洪水、フィッシャープラザの電気火災などがありました。さらに言うと、ハッキング、DoS攻撃、ウイルスアタック、サーバーの故障などは常に起こり得ることで、我々は様々な危機に直面しては、その都度乗り越えてきたのです。

これらの危機から私が学び、心に留めていることを下記のリストにまとめました。

1. 危機が訪れた時、焦って決断をするのではなく、まず準備をします。私は、コロナウイルスパンデミックは予期しておりませんでした。
2. 現金を準備します。万が一の場合に備えた資金を準備しておくことで、パニックにならずに済みます。
3. 社員と密にコミュニケーションを取ります。社員と意見が合わないこともあるかもしれませんが、みんなから良い意見を引き出せるよう、話を聞き理解するよう努めます。
4. 冷静になります。リーダーがパニックになれば会社全体がパニックになってしまいます。あなたは舵を握る船長なのです。社員に焦っている姿は見せないでください。
5. 危機には終わりがあることを思い出します。意識を高く持ち、嵐が過ぎたあとの準備を始めます。

危機的状況にいるかどうかに関わらず、これらのことを常に意識するよう心がけています。「マーフィーの法則」や「ハインリッヒの法則」もその一つです。これらの法則について知らない場合は是非調べてみてください。

コロナウイルスの危機にも必ず終わりが来ます。その時の準備はできていますか?

投稿者 Master : 10:11 | コメント (0)

2020年04月17日

渋谷時流塾

渋谷時流塾は新型コロナウィルス対策でしばらく開催を中止いたします。

投稿者 Master : 11:42 | コメント (0)